祭(まつり)とは何か
大和言葉での祭(まつり)とは古語の「まつらう」からきているとされる。「まつらう」とは絶対服従すると言った意味である。
民主主義が叫ばれる現代、多少聞こえが悪いので、補足説明をしておくと。「身も心もすべて捧げる覚悟で神様にご奉仕する」と言い換えても間違いは無いであろう。
今を生かされている事に感謝の誠を捧げ、一人でも不幸な人がなくなりますように、真心を込めてお祈り申し上げるのであるから、当然の事である。
もう一つは、真(ま)釣り(つり)と言った解釈である。何を真に釣り合わせるのか。それは神様の御心と人間の心である。よく入神の境地とか神業と言われるのもこの部類にはいる。一心不乱の状態は、吾であって吾で無し、と言った状態で、神の御心と人間の心が絶妙のバランスを保っている状態でもある。
精神分析学的ないいかたをすれば、トランス パーソナルな状態にあると言う事が出来る。この時、普段は閉ざされている潜在意識の壁が開き、全人格が渾然一体になった様な状態でもある。極度に集中しつつも、とてもリラックスし、何か頭の中をそよ風が吹きぬける様なとても気持ちのよさを感じる。明鏡止水(めいきょうしすい)と言う表現もある。そのような心境で祭典を執り行うのが理想とされる。
祭を執り行う時の心境は、真に釣り合っている状態である。「これが日本の祭りだよ」と北島三郎も歌っていたではないか。以上述べた事はあくまでも信仰の告白であり、学問ではない事を付け加えさせていただく。
お祭りは祖形の反復である
お祭りの第一の意義は、祖形の反復である。こう言っても余りピンとこないかもしれない。そこで、この一点に焦点を当てて話を進めていくことにする。
我々の生活は、過去の文化伝統の遺産の上に成り立っている。これは紛れも無い事実である。身の回りを取り巻く電化製品も、電子機器も、車をはじめとする便利な交通手段も、文学も、芸術も、スポーツも、数え上げたらきりが無い全てのものがそうなのである。だから、我々の生活は過去とは切っても切り離せないのである。一本の木に例えてみるとこのことは、より一層明確になる。まず根があり、幹があり、枝があり、そして我々は日光をさんさんと浴びて生い茂る葉っぱのような存在だと例えることが出来る。根も幹も無いのに枝葉が生い茂ることが出来ないように、一つの芸術作品を取ってみても、過去の伝統文化の継承のうえに新しい枝葉を継ぎ足して出てきているのである。このことは、天才芸術家であればあるほど、よくわきまえている。先人の偉業があったからこそ、今の自分の作品が開花したのだと。彼等は真剣であればあるほど、先人の辿った道を忠実に再現しようとする。
お祭りもそのようなものである。
皇室のご祭祀でも触れたが、神社のご祭神は神話に起源をもち、長い年月にわたり、その時代時代に生きた人々の尊崇を集め今に至っている。お祭りも、神話に起源をもち、その神話をもとにして、神々が辿った事跡を追体験しているのである。単なる儀式やパフォーマンスなどでは決して無いのである。報本反始と言い換えても良い。同じ事を、毎日、毎月、あるいは毎年、決して省略する事無く、みだりに改変する事無く、あくまでも以前のとおりのしきたりどおりに続けていくのである。これを繰り返すことにより、遠いはるか彼方に追いやられ忘れ去られようとしている過去を現代によみがえらせることが出来る。思い出すことが出来る。新しく自覚することが出来る。再確認出来る。決意を新たにすることが出来るのである。
発展する為には、過去との断絶ではなく過去とより一層密接に結びつくことが必要なのである。しかし、戦後の日本の精神世界は、過去との断絶によって、バラ色の未来が訪れるものとの幻想を抱いて来た。その結果どうであったかはここで述べる必要は無い。ひとつだけいえることは、より一層の精神的荒廃を招いたことである。断絶しているお祭りの復活を心より望む。