神道と鏡の関係について
あなたはこの鏡に何を映しますか?
蜃気楼よりももっと大きな夢をうつしてください。
これから私が述べる事は、恐らく今までほかの神主さんが、あえて積極的には述べてこられなかった事だと思います。言葉にするには、余りにも内容が神道の核心の一面に触れるほど、濃すぎ、また、文章が難しくなりすぎるきらいがあるからです。でも、これから私が言う事は、それほど神社神道に対して予備知識の無い若い人たち(こう言っても怒らないでください。お教えする努力を怠ってきた私たちに責任があるのですから)に重大な機密を暴露することになります。なぜなら日本の将来をあなた方青少年に期待するからです。驚かないで最後まで聞いてください。
ここでは余り難しいお話にならないように、注意を払いながら進めて行きたいと思います。寺院には御本尊様があり、僧侶や檀家信徒の礼拝の対象になっていることはご存知ですね。では神社の場合はどうなのでしょうか。神社には神様がお祭りされています。では、どの様にお祭りされているのでしょうか。神様ご自身は物質的な姿形をおあらわしになられない、霊的な御存在ですから、神様をお祭りする時われわれ人間としてはその証と言ったものを求めたくなります。即ち、目に見えない神様を具体的な物を通して礼拝する事になるわけです。
古代(縄文時代 弥生時代)は自然が礼拝の対象でした。この場合もお断りして置きますが、目に見える御神木そのものが神様だと信じて拝んだのではなく、その背後にある神秘的な何かを、その御神木の背後に感じ取っていたからなのです。言い換えれば、神様がお宿りになっておられると言うことになります。そして、この場合の御神木を依代(よりしろ)と言ったり御神体と言ったりするのです。
やがて日本に古代中国(約2、000年前)から鉄器や青銅器などの金属製品や勾玉などの宝石がもたらされる様になりました。代表的なものに、剣、玉、鏡など後に御神体にされたものがありました。古代中国ではこれらの物はあくまでも生活を便利にする道具にしか過ぎませんでした。それが日本に伝わると、今までの自然造形物に加えて剣、玉、鏡なども礼拝の対象になって行きました。
天皇の御位をあらわすとされる三種の神器などはその代表です。古代日本人の感性は、今までの自然物のみならずこれら当時の文明の利器に対してすら神秘的な霊的存在を感じ取っていたのです。例えば玉(たま)は霊、魂も同じくたまと言うように霊魂の象徴とされ、剣(つるぎ)は驚くべきその切断能力に穢れを切り裂く力が込められていると信じられて尊ばれました。また、鏡は神霊そのものの象徴とされる。鏡のその澄みきった様子を称える言葉に、真澄の鏡(ますみのかがみ)と言う言い方があります。
古代日本人の感性に照らし合わせると、神霊は白熱の真昼の太陽の様に光輝く存在と感じとられ、その光を受けて輝く、磨き込まれた一点の曇りも無い鏡のその有様に、神とはこのようなお方なのだとの認識が生れました。しかし、それは想像のみに留まるものではありませんでした。今私が、余りにも非科学的な事を言っているようですが、そもそもわれわれ現代人でも、具体的な物を通してでないと抽象的なものが感じ取れないではありませんか。また、物体に何か精神的なものが宿ると言った考え方もあながち否定出来ない状況にあります。今後の科学の解明を待つばかりです。
今はわからない事はわからないことと、素直にわりきり、自分の感性を信じてそれにゆだねる態度が大事なのです。何でも信じ込んでしまうといった姿勢にも問題がありますが、目に見えないからと言って否定してしまう態度にも問題はないでしょうか。なぜなら人間はいろんな事を感じながら生きているからなのです。その自分の受けた感じを否定し去り、何事も理論理屈に押し込めて判断しようとする事は不自然な事ではないでしょうか。
しかし、その感性も磨いて行かなければたちまち曇ってしまいます。では、どうすればいいのかと言うと第一に自分に素直な生き方をすると言う事です。ここでは詳しく述べられませんが、例えば、絶えず清潔な状態を心がけるとか、自分にも人にもうそをつかない、といった事があげられます。恐らく完全には実行出来ないでしょう。決して修行と言ったおおげさなものではありませんから、無理は禁物です。一つずつでいいのです。その心がけさえあればずい分と進歩が見られます。お互いに手を取り合って、がんばっていきましょう。
さて、鏡に話をもどします。私が勝手に言っているのではなく、鏡(かがみ)とは輝く身(かがやくみ)が約まってできた言葉だと言われています。なるほど私が先ほどから言ってきた事と一致するではありませんか。
幕末に黒住教を開いた黒住宗忠によれば「天照大神」と思われる光輝く御方が自分の体の中に入られ、たちまちにして、肺結核が完治してしまったと言った内容の事が述べられているが、あながち否定しさっても良いものでしょうか。また、臨死体験を経験した人は一様に光輝く存在に出会ったと報告されています。私も一応、幽体離脱の経験がありますので、個人的には否定出来るものではありません。私の体験でも、私の御仕えした祭典中に光り輝く存在を見られた(恐らく肉眼で見たのではないだろうから何と表現していいのか)との報告も有りました。
単なる想像ではなく、鏡とは神霊により似通った物であり、その物に神霊がお宿りになられてすらいるのです。天照大神も「私に会いたければこの鏡を見なさい」と言われた事が神話に書かれています。もう一つ付け加えれば、その鏡の中に何が映りましたか。あなた自身の姿形ではないですか。このように鏡の中に溶け込んだように感じられるあなたも鏡であり、鏡に宿られる神そのものなのです。
ここまで述べて来ましたが、説明不足申し訳ありません。また、お話が難しくなりすぎました。本当にごめんなさい。しかし、何か感じ取っていただけたのではないかと思います。はたして自分は今この話を聞いて何を感じているのだろうか、改めて見つめてみてください。このようにお話をすすめて行けば、神道と鏡、鏡と神様との結びつきが、少しは解っていただけたことと思います