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美濃和紙の里

上野 八幡神社

公式ホームページ

上野 八幡神社 弐の鳥居

目次集

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ようこそお参りくださいました。宮司の太田伝也(おおたつたや)です。
昭和30(1955)年10月6日生まれです。

初めてのお方は最後までスクロールして、御参拝ください。

遠路はるばるようこそお越しくださいました。まずはごゆるりとなさってくださいませ。このエレクトロニクス参道は宮司の私が道をひらきました。

開設日時 平成十三年五月二十四日竣工

八幡神社占いコーナー

手前(てまえ)より拝殿(はいでん)幣殿(へいでん)御本殿(ごほんでん) 
中門(ちゅうもん)(とびら)母校(ぼこう)上牧(かみまき)小学校(しょうがっこう)御真影(ごしんえい)奉安(ほうあん)殿(でん)御扉(みとびら)

上野 八幡神社 御本殿

右 大國社(だいこくしゃ) 左 水神社(すいじんしゃ)


こぼれ話

戦前、各小学校には御真影奉安殿=ごしんえいほうあんでん(天皇陛下=当時は昭和天皇の御写真を安置する施設)があった。それもまた敗戦により捨てられる運命にあった。上の写真をみてのとおり丁度拝殿と幣殿を結ぶ渡し屋根や中門の扉、木造建造物の似合う神社には、異質だとは思いませんか?(中門のデザインの菊の御紋章に注目)

実は天皇陛下を実の父親のように恋慕う当時の人々(本当にそうでした)、私の祖父太田善右衛門(おおたぜんえもん)等が「いっそ捨てられるぐらいなら」と、母校上牧(かみまき)小学校に掛け合ってもらってきたものです。1945年の敗戦以来今年は2001年、気の遠くなるような年月が過ぎ去り行きました。この旧奉安殿の遺構も長い年月立派に持ちこたえております。私個人としては感慨深いものがあります。思い出すたび胸が熱くなります。おじいちゃん、ありがとう。

太田(おおた)(ぬい)殿(どの)(すけ)想像肖像画
おそらくこのような、立派な御方であったろうとイメージを膨らませられる

八幡神社創立までの主なあらすじ
 今を去ることおよそ850年前、一人の落武者が昼なお暗い、鬱蒼とした太古の樹木の生い茂る、山中をさまよっていた。彼の名は太田縫殿助(おおたぬいどのすけ)源信綱(みなもとののぶつな)と言う。

平治の乱(1159)で平家の総大将平清盛(たいらのきよもり)と戦って敗れた、源氏の総大将源義朝(みなもとのよしとも)の家臣である。彼はその後、今の岐阜県美濃市上野の地に居をかまえ、当時上方(近畿地方)でさかんであった紙漉きの技法をこの地に伝えた。

彼の功績は、農業生産性の低い山あいの地に暮らす民衆に新たなる生活の糧をもたらしたことである。美濃和紙の品質の高さは誰もが褒(ほ)め称えるところであり、この地方の一大特産物でもある。今でも彼は紙漉きの始祖としてあがめられている。

彼の御霊(みたま)は現在も宮司邸内の一角に氏神社として祀(まつ)られ、毎年彼岸には、一族の手によって真心のこもった祭典が奉仕されている。

彼は、人一倍信仰心の厚い人物で特に源氏一族の守護神である八幡大菩薩への崇敬が厚かったが、落武者と言う身分を憚(はばか)り整った社殿を建立するまでには至らなかった。八幡神社が御造営される約200年前の話である。

参照資料

宮司邸(中央が本宅,向かって左手のどっしりした建物がお蔵、氏神社は、本宅と蔵をむすぶ渡り廊下のすぐ後ろにある)

太田縫殿助源信綱を祀る氏神社

美濃和紙の里会館

この参道はまだ工事中です。今日と明日とではまた違った発見が有るでしょう。何度でもお参りください。
大それた事ではありますが、産土の神様より日本神道のメッセンジャーの一人として立つよう思し召しがありました。たいしたお役には立てないと思いますが、一所懸命がんばりますのでご声援よろしくお願いいたします。まず、手始めに「神道よもやま話」のコーナーでわかりやすいお参りの仕方の解説に努めますのでじっくりとお読みください。

上野八幡神社住所
〒501−3787
岐阜県美濃市上野289−1 
八幡神社宮司 太田伝也 
電話 FAX 0575−37−2754
メールアドレス ootatsutaya@h6.dion.ne.jp
携帯電話 090−1747−6958

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